アラビアのダンジョン小説 『アラビアの夜の種族』

ダンジョン

  • 書名:『アラビアの夜の種族(1)~(3)』
  • 著者:古川日出男
  • ISBN: 978-4043636037(1巻)、978-4043636044(2巻)、978-4043636051(3巻)
  • 刊行日:2006年7月
  • 発行:角川文庫
  • ページ数:277(1巻)、364(2巻)、407(3巻)
  • 形態:文庫

アラビアの夜の種族とはなんとも妖しい名前。”Arabian Night Breed”という著者不明の書物をサウジアラビアで見つけた古川日出男が日本で初めて訳した!という触れ書きの本書。

ナポレオンがエジプトに侵攻する直前のカイロ、エジプトの実力者のイスマイール・ベイ配下のアイユーブは持つものを破滅させる「災いの書」を作るために女物語師のズームルッドのもとを訪れる。

ズームルッドは境遇の異なる3人が阿房宮と言われる深い深い迷宮で邂逅する物語を語り始めるのだった・・・

阿房宮という迷宮の描写はドラゴンクエストかウィザードリィなどのゲームのようで、それなりのゲーム少年だった私は懐かしい感覚を覚えた。

文庫版は三分冊の結構な量であり、合計すると1000ページ近い量になると思われる。

この分量で文章は描写と演出の多い仰々しいものであるので読むのにはかなりの時間がかかる。

だがしかし、ただただ長ったらしいというわけではなく、長いけども面白い物語を話し聞かせてもらっているような気になれるのだ。

気軽に読める本が好きという方にはちょっとオススメ出来ないが、ヒマでヒマでしょうがないという方は是非手に取っていただきたい。

期待外れのカキオロシ 『GO-ONE』

地方競馬 ダート

  • 書名:『GO-ONE』
  • 著者:松樹剛史
  • ISBN: 978-4087461237
  • 刊行日:2007年1月
  • 発行:集英社文庫
  • ページ数:243
  • 形態:文庫

前作『ジョッキー』で、日本競馬で活躍する騎手達の人間臭くリアルな日常を描いた松樹剛史の競馬小説第2作目(なんと書き下ろし)が今回紹介する文庫。

地方競馬、中央競馬で活躍する若手の3人の騎手を軸に話は進んでいく。

前作でも感じた事であるが、キャラクターの造形がいわゆる日本のアニメに出てくる定型的なキャラクターのようで私はどうにもなじめなかった。

私は競馬が大好きで、世の中には競馬に関する小説が少ないなと思っていた。

だから、日本競馬の騎手を描く松樹剛史の登場は私にとってとてもうれしいものだった。

松樹剛史のデビュー作である『ジョッキー』は、荒削りで表現力不足な面も感じたのだが、これを書きたい!という圧倒的なパワーが感じられ数時間で読みきった記憶がある。

それだけに今回の小説に対する期待は高かったのだが、第2作目は失敗とまではいかないが成功とも言えない作品に仕上がったと思う。

だから私は松樹剛史の競馬小説第3作目に期待することにする、つーか前作『ジョッキー』の続編を書いて欲しいな。

欲望の器が小さくなる『アヘン王国潜入記』

疑惑の片栗粉。本書とはあまり関係ない

  • 書名:『アヘン王国潜入記』
  • 著者:高野秀行
  • ISBN: 978-4087461381
  • 刊行日:2007年3月
  • 発行:集英社文庫
  • ページ数:387
  • 形態:文庫

私が高野秀行の著作を初めて読んだのが本書。確か新刊書店でジャケ買いをしたように記憶している。

ビルマ(ミャンマー)の山岳地帯に住んでいる少数民族のワ族によってアヘンの栽培が行われていると知った著者がケシの栽培で生計を立てる村に単身乗り込み、ワ族とともにアヘンを作りアヘン中毒になってしまうお話である。(ワ族はビルマ北部のシャン州の州内州であるワ州に住んでいる)

軍事政権のビルマ(ミャンマー)には反政府勢力が多数存在し、その一つがワ州(ミャンマーの中国寄りの地帯で中国政府の影響が強いワ州連合軍の支配化にある)の反政府勢力である。

ワ州は麻薬の密造で名高い(悪名高い?)ゴールデントライアングルの一角を成していて、気候がアヘンを作るためのケシの栽培に適し、ケシをすぐに現金にすることができるので住民の多くはケシの栽培に従事している。

反政府にアヘンと聞くと重々しい犯罪のニオイがしてくるし、さらに軍事政権となるとビルマ(ミャンマー)の民主化だとかいう小難しい話が出てくるのではないかと思うが、そこまで小難しい理屈は出てこないので安心して読めるだろう。

またアヘンを吸う描写(というかアヘン中毒になってしまう)も見られ興味深い、とくに私はアヘンを吸ってみたいと強く思うわけではないがアヘンを吸うと「欲望の器が小さくなる」という説明にフーンと納得するのであった。

私は16歳くらいから20歳くらいまでの間の数年間、何か変な感情というかなんだかわからないが、いきなりトリップ(トリップと呼ぶのか、なんつーかいきなり脳の中に何かがうわーっと放出されるような感じ、でもなんか違う、なんて説明すればいいんだ)をするようなことがあった。

薬はやっていなかったし、何が原因なのかいまだにわからないのだが、たとえば歩いていたりゲームをしていたりするといきなりグワーっと何か得体の知れないというかなんというか何かが頭に上ってきて、それでトリップと言うか、自分が世の中で一番悲しい存在である、みたいな感覚に襲われて、それでその時の悩みがぱあっと消えるのだ、なんだかわからないが、とにかくそういう状態に30秒くらいおちいり、それで徐々にその感覚は引いていくのだ。

その時の感覚みたいなものをどう言葉にしていいのかわからず、当時は「バッドトリップ」と自分では呼んでいた。

で、このアヘン王国潜入記を読んだところ、アヘンをやると欲望の器が小さくなるという記述があり、私のあの「バッドトリップ」と似ているなと思ったのだ。

あの私の「バッドトリップ」はアヘンだったのか、アヘンと同じような脳内物質が大量に分泌されていたのだろうか、一体あれはなんだったんだ。

ホントウにミャンマーは江戸時代なのか? 『ミャンマーの柳生一族』

ミャンマー ヤンゴン,シェダゴンパゴダ

  • 書名:『ミャンマーの柳生一族』
  • 著者:高野秀行
  • ISBN: 978-4087460230
  • 刊行日:2006年3月17日
  • 発行:集英社文庫
  • ページ数:238
  • 形態:文庫

黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)の一角であるミャンマーのワ州に潜入しアヘンを栽培した高野秀行が、今度は作家船戸与一の取材旅行のガイドとして再びミャンマーへ・・・

今回は非合法な潜入でなくて、しっかりビザを取っての潜入・・・いや入国なのでミャンマー軍の情報機関のようなところが彼らのガイドおよび通訳および警護を担当する事になる。

そしてミャンマー軍情報機関の面々と船戸与一、そして高野秀行の面白旅が始まるのである。

本書の「柳生一族」というのはミャンマーという国を説明するために現在のミャンマーは鎖国中の江戸時代の日本である!と高野秀行が断定し、軍の情報部はあの「柳生一族」になぞらえる事が可能ではないのか?という冗談のような「ミャンマー軍情報部=柳生一族」説なのである。

海外に行った時、いや地方に行った時でもいいが、この街は日本で言うと東京だなとか、東京で言えば渋谷だな、などと訪ねた場所を自分の知っている地元で言えばどこか?というたとえをよく耳にするが、これも似たようなものである。

ニューヨークは日本で言えば東京だ!という断定などは、ある面では合っているだろうし、別のある面では大いに間違っているかもしれない。

ただ、ニューヨークを日本で言えば東京!と置き換える事により、ニューヨークのアメリカでの位置というものがおぼろげにつかめる気がする。

たとえというのは間違っている可能性も含みつつ、ただそのモノを頭の中で把握するためにちょっとだけ役に立つのハズなのである。

本書もミャンマー=江戸時代というやや強引な断定をしているが、そこからミャンマーも日本も対して変わらないのねという共有感覚が生まれ、でも江戸時代って事は結構色々ちがうのねという差異の感覚も生まれるのである。

まあなんだか小難しい小理屈を述べてしまったが、ミャンマー=江戸!という強引な仮説の強引っぷりが気持ちよかった本であった。

本書の柳生一族の関係者?と言ったら怒られるのかもしれないが、アウンサン将軍の娘スーチーの政党が最近ミャンマーの第一党となった、彼女の動向は日本ではかなり好意的に報道されているが、実際のところどういう人物なのだろうか、そして柳生一族はどうなるのだろうか。

先が気になるだけの、いま、会いにゆく息子タイムトラベル『時生』

トンネル 先が気になる、なんつって

  • 書名:『時生』
  • 著者:東野圭吾
  • ISBN: 978-4062751667
  • 刊行日:2005年8月12日
  • 発行:講談社文庫
  • ページ数:544
  • 形態:文庫

難病にかかった自分の息子がタイムトラベルをして、若い頃の父親(息子が生まれる前の父親)に会い、そして父親が成長するというお話。

父親と息子が同じくらいの年齢で出会うというのは重松清の『流星ワゴン』のようで、死んでしまう人間が過去にさかのぼるというのは『いま、会いにゆきます』のようでもある。

父親が出てくるお話に弱い私はちょっとだけ感動を期待して読み始めた。

確かに先の気になる展開であった(結末はわかっていたが・・・)、寝る前に読み始めたら読み終わるタイミングを逃してしまい夜更けまで読んでしまった。

タイムトラベルをして若い父親と一緒に当時の父親の恋人を助けに行くというストーリーはなかなかに面白い設定だと思う。

だが、この小説、何かが足りない。

ストーリーがどう展開するかが気になるだけで、登場人物が魅力的であったり、細かい小道具が面白かったりはしないのだ。

さらに携帯電話が普及するという事を未来の息子から知らされてそれを人に喋ったのがきっかけで就職が決まる、というギャグのような展開が一番気になった、なんだそれ。

別にうまく書いてくださいとは言わないのだけれども、もう少し地味に丁寧に色々考えて個々の登場人物のキャラクターを魅力的に書いて欲しかったな、なんてかなり勝手な事を思っている読後なのである。

あ、でも「先が気になる」という事だけに関しては結構いい線いっていましたよ。先が気になるというとこだけは。

小説なのかノンフィクションなのか 『ヨーロッパに消えたサムライたち』

サムライではなく武将か

  • 書名:『ヨーロッパに消えたサムライたち』
  • 著者:太田尚樹
  • ISBN: 978-4480422958
  • 刊行日:2007年1月
  • 発行:ちくま文庫
  • ページ数:327
  • 形態:文庫

戦国~江戸期の大名であった伊達政宗がスペインとローマに使節団を送った、その使節の1人である「支倉常長(はせくらつねなが)」がこの本の主人公である。

本書には支倉常長がヨーロッパに行き、帰ってくるまでの10年弱の間の出来事が綴られている。

鎖国とキリスト教禁止が目前に迫っていた江戸時代初期、欧州に渡った日本人が果たした異文化との接触はおおいに興味深い。

その後の日本の鎖国のためか、支倉使節の旅の詳細がしっかり伝わっていないのが悔やまれるところではあるのだが記録と想像を使って描かれる旅の描写はそれなりに面白い。

記録に残されていないところは想像と推測で補うしかないのであるが、この本においては想像の領域が結構多く好みの別れるところかもしれない。

いっそのこと小説仕立てにしてしまった方がよかったのではなかろうかと思ってしまう。

タイトルの「ヨーロッパに消えた~」というのは、日本に帰った支倉常長とは別にスペインの地に残った使節団の一員の事を示す。

彼らの実態は明らかではないのではあるが、著者は彼らがセビージャ近くに集団で住みはじめたのではないかという推測を立てている。

このセビージャの周辺にはJapon(ハポン)の姓を持つ人がいるようなのである、ハポンとは言うまでもなく日本の事である。

“Jesus Sanchez Japon(ヘスス・サンチェス・ハポン)”というサッカー選手がスペインのプロサッカーリーグにいたのだが、彼も日本人の血を引いているのかもしれない。

日本人の血が流れている一族がスペインにいるという仮説は日本人である私にとってナショナリズムをくすぐられるような事態でもあるのだが、単純に鎖国という封建的なイメージの強い江戸時代にヨーロッパで暮らす事になった日本出身の人達がいるという事実自体が面白いと思う。

ちくま文庫の「学術系」モノに対して、大学の教授のような人が書いている本はワリとお堅くて内容がかなりパッとしない、というイメージを持っていたのだがこの本は有意義な読書時間を提供してくれた。

でも、ノンフィクションなのか小説なのか、というところを脱していないのでどうにもオススメしずらい今日この頃なのであります。

ジュニアにだまされ、間違えて買った 『プレイヤー・ピアノ』

ピアノの鍵盤

  • 書名:『プレイヤー・ピアノ』
  • 著者:カート・ヴォネガット・ジュニア
  • ISBN: 978-4150115012
  • 刊行日:2005年1月
  • 発行:ハヤカワ文庫SF
  • ページ数:603
  • 形態:文庫

社会のシステムが高度に機械化され、人間の労働は機械に取って代わられ、職を失った人々(下層民)と機械の整備をする人々(エリート)が生まれてきたという設定のSFである。

主人公は機械を整備するエリート、だが彼は高度にシステム化された制度(機械が人間を奴隷のように扱う事、仕事の無い下層民と機械の管理者達との二分化された格差社会)に疑問を持ち始める。

彼はある事件をきっかけに機械の支配を打ち破る目的を持った革命組織に入るのだが、そこで見たものも結局現体制とあまり変わらない組織管理制度だった・・・

支配制度も革命組織も、やってることは結局同じなんではないか?

革命が起きてもまた同じような体制が出来上がって、人々が同じように苦しむのではないか?

という暗いあきらめみたいなものがジョージ・オーウェルの書いた『1984年』と『動物農場』によく似た作品であった。

翻訳がいただけないなという部分もあるのだが、非常に退屈なお話であった。読んでいて切迫感というものを全く感じなかった。

カート・ヴォネガット・ジュニアという名前を本屋で見つけて、「前に読んてよくわからなかったけど、もしかしたらスゴイ面白い作品だったのではないか?」と感じた『故郷から10000光年』という作品の作者だと思い、『プレイヤー・ピアノ』を買ってみた。

だが、今日本屋でSFコーナーを見ていたら『故郷から10000光年』はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの作品であった。

カート・ヴォネガット・ジュニアとジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、名前が長いのと後ろにジュニアがつくのが似ていたので私は勘違いをしていたのである。

さらにカート・ヴォネガット・ジュニアは前に読んで、こりゃだめだと思った『タイタンの妖女』の作者だったのであった・・・

ジュニアちがいの上に、前に読んでもう読むまいと思っていた作家の本を買って読んでしまったとは・・・随分マヌケな話であった。

楽しい海浜生活 『ぱいかじ南海作戦』

ぱいかじ南海作戦

  • 書名:『ぱいかじ南海作戦』
  • 著者:椎名誠
  • ISBN: 978-4101448299
  • 刊行日:2006年12月1日
  • 価格:476円(税別)
  • 発行:新潮文庫
  • ページ数:317
  • 形態:文庫

離婚と失業を同時にした男が、フラリと沖縄に赴きそこで「海浜生活」(俗に言っちゃうとホームレス)を送る一団と出会い沖縄の砂浜でサバイバル生活を繰り広げるというストーリー。

ぱいかじとは沖縄地方の方言で南風の意味らしい。

初めて椎名誠の作品と出合ったのは、10数年前の大学時代。

「うーん、なんていうかなあ、うーん、とにかくいいんだなあ、まあとにかくそうゆうことだからオマエも読めよ読め読め、読めったら読め、な読め読め・・・うんうん」

と大学の友人から椎名誠の哀愁の街に霧が降るのだ』を薦められた。

その友人はメガネをギラギラさせた青年で、そう言うとぬるい缶ビールを飲み干したのである。(ホントウは学食だったはずなので、友人はたしかタダのお茶を飲んでいた)

あれはおそらく彼の住んでいた四畳半のアパートで、友人3人くらいで酒を飲んでいたときのことであったろうか。(ホントウは学食だった)

その時のその友人の言葉はあまり信じていなかったのだが、そこまで言うのならと読んでみて一気にめくるめく椎名ワールドに魅了され、それ以来椎名誠の作品を読み漁った。

私小説、SF、冒険、エッセイなどなどジャンルを飛び越えて書かれる彼の作品の特徴は、なんと言ってもネーミングセンスではなかろうか。

「名付け」とは「世界」を作る事だとどこかで聞いたりしたことがあるのだが、椎名誠の魔術的な名付けから魅惑的で怪しげな椎名誠の世界が作られていくのである。

ここではあえて例はあげない、読んでみてからわかってほしいのである。

ブックオフでも街の古本屋でも、お店に入ればそこの文庫コーナーには確実に椎名誠の本がある。

文庫でさらに古本なので値段もお手ごろ(100円前後)、スターバックスに入るより安いですよ、お姉さん。

モスラとオスカルが競演する柳生モノ in 朝鮮半島 『柳生陰陽剣』

柳生陰陽剣

  • 書名:『柳生陰陽剣』
  • 著者:荒山徹
  • ISBN: 978-4101210421
  • 刊行日:2006年10月1日
  • 価格:629円(税別)
  • 発行:新潮文庫
  • ページ数:493
  • 形態:文庫

柳生新陰流の遣い手であり、陰陽師でもある主人公の柳生友景が、朝鮮妖術師と死闘を繰り広げる非常に楽しい歴史SFファンタジー作品。

豊臣秀吉の文禄・慶長の役が終わって徳川政権が打ち立てられる前後の話で、朝鮮の妖術師は文禄・慶長の役に対する復讐として日本を影から支配しようと目論むのだ。

朝鮮妖術師は巨大な蛾である「モスラ」を使い、主人公友景には男装の女剣士「オスカル」と「アンドレ」がお供をする。ヤマタノオロチも出てくるし、最後には霊的超兵器「天沼矛(あまのぬぼこ)」なんてのも出てくる。

荒唐無稽な感じもするが、さにあらず、出演陣は結構マジメにやっている(ってちょっと表現がおかしいか)ので、怪獣や超兵器が出てきてもそこまで変な感じはしない。

さらに、古代から続く日本の天皇家と朝鮮王家との「密接」な関係が物語の背後にはあり、全部が全部ホントウなのかわからない、というか、実際にどうだったのかは今では確かめるすべがないのだが、冷静に読むと結構シリアスな小説かもしれない。

この小説に出てくる「歴史的事実」がどの程度ホントウのことなのかはよくわからないが、色々な歴史解釈を下地にして、この物語が作られている。

基本的には、モスラやオスカルに興奮しながら読書を楽しめばいいが、荒山さんが言いたかったことは「歴史は支配者の都合で捻じ曲げられるし、それをのちの世の人たちがホントウなのかウソなのか確かめるスベっつーのはないのだよ」ということなのかもしれない。

哀しみのないサバイバル小説 『透明人間の告白』

透明人間に迫り来る影

  • 書名:『透明人間の告白(上・下)』
  • 著者:H・F・セイント
  • 翻訳:高見浩
  • ISBN: 978-4102377017(上)、978-4102377024(下)
  • 刊行日:1992年5月
  • 発行:新潮文庫
  • ページ数:398(上)、381(下)
  • 形態:文庫

主人公の証券会社に勤める男が、ある研究施設での事故にまきこまれ透明人間となってしまう。彼は透明人間を捕まえようとする当局から逃れるためにニューヨークの街を逃げ回ることとなる・・・

本の雑誌のオールタイムベストテン(過去から今まで全ての作品のベスト)の何位かに入っていたので、面白そうだなと思い読んでみた。

そういえばオールタイムベストという表現ってなんかおかしいなと思っていて、和製英語かなとWebの辞書で調べてみたら、「史上最高の」という意味だった。

和製英語ではなかった・・・

本書は上下巻合わせて700ページ超えの結構なボリュームだったがさらりと読むことが出来た。ただ読むことが出来たのはとても面白かった!からではなく、結末が気になったからである。

透明人間になった男がどのような結末を迎えたのかはあえて書かないが、なんとなく肩透かしをくらわされたような結末ではあった。

この小説の設定で気になる点が一つある。

透明人間の食事場面は出てくるのだが、排泄の場面がほとんど出てこない。

読んだ人ならわかると思うのだが、この透明人間から排泄されるモノが透明か否かでストーリーと主人公の行動に大きな影響が出てくるのである。

もちろん、透明人間になったため排泄はしなくなったのかもしれないのだが、それだと冒頭でおしっこをしている場面の説明がつかない。

それとストーリーと関係ないところで一つ。

訳が古い、訳者のセンスがないだけかもしれないが女性の言葉遣いなどが、今じゃありえないよ・・・というものがあった。20年弱前ってそんなに言葉が違ったかな?と思ってしまう。

そしてこの主人公、なんだか感情移入できない。運命の神様の気まぐれかなんかで透明人間になってしまった主人公、とても哀しそうではあるのだが、なんだか彼の哀しさにリアリティが全く無いのだ。

それは主人公を描写する作者の腕の無さだと思うのだがいかがだろう。

なんだか罵倒している文のようになってしまい、上下巻を律儀に読んだ私はなんだったのか?と思ってしまうが、そこまで悪くは無い小説です、ただ期待してた分、がっかりしたのも確かなのだ。

でもやっぱスマホとパソコンが巷に溢れる現代では、ちょっとこの透明人間の話じゃ面白くないかもしれない。(現代に照らし合わせると違ってくる部分が多々あるんです、過去の作品に現代の価値観を当てはめるのはルール違反なのだけど、とにかく期待が大きかった分だけ落胆も大きかったのです)