中世ドイツの星を継ぐもの? 『異星人の郷』

異星人の郷 Eeifelheim

  • 書名:『異星人の郷』
  • 原題:”Eifelheim”
  • 著者:マイクル・フリン
  • ISBN:978-4488699017(上)、978-4488699024(下)
  • 刊行日:2010年10月29日
  • 発行:創元SF文庫
  • 価格:各940円(税別)
  • ページ数:349(上)、366(下)
  • 形態:文庫

舞台は中世ドイツ南部フライブルクの近くにある上ホッホヴァルトという小さな村。ある日その村に異星人の宇宙船が不時着する・・・

主人公は上ホッホヴァルトに住む少しワケありの神父ディートリッヒ。彼と異星人であるクレンク人とのファーストコンタクトから物語は始まる。

クレンク人の姿はバッタかカマキリのようで、村人の多くはクレンク人を悪魔だと思ってしまう。キリスト教の世界観が支配する中世においてこの事件は外に漏らしてはいけないものだった。もしこの事件が外に漏れると、村人は悪魔と交流を持ったということになり、異端審問にかけられ命の危険もある。

クレンク人はワープ?中に事故にあい、中世ドイツの森に不時着したようだ。これから自分たちがどうなるのかわからないという不安がありつつも徐々に村人と打ち解けていく。自分たちの世界に戻ろうと乗り物を修理しようと躍起になるが、場所は中世ドイツの村なので修理に必要な材料はなかなか集まらない。

異星人とファーストコンタクトする際に一番の障壁となる「言葉の問題」はクレンク人たちが持っているハインツェルメンヒェンというスマホのような機械が言葉の翻訳をしてくれるので、地球人とクレンク人の間には簡単にコミュニケーションが成立する。

面白いのは、クレンク人たちがディートリッヒの説明するキリスト教の神に興味を示し、キリスト教に改宗をするクレンク人も出てくる。クリスマスには主が降臨すると教えられ、その主が自分たちクレンク人を助けてくれることを期待するが、実際に主が降臨することはなくクレンク人たちは落胆してしまう。

ディートリッヒがクレンク人の必要としていた銅線を調達するために奔走した結果、クレンク人たちはなんとか船を修理して、地球に残ると言う4人だけを残して故郷にたどり着けるからわからない旅に出発する。

クレンク人たちが出発した後、ペストが上ホッホヴァルトにもやってくる。村人たちの一部はクレンク人がペストを持ち込んだのではないかと疑うが、4人のクレンク人たちは懸命に看護をする。

物語は中世ドイツのディートリッヒの視点、現代パートである歴史学者トムの視点を交互にして進む、現代パートの分量はあまり多くなく、そもそも必要があったのかどうかは少し疑問なのだが、物語のリアル感というかSF感を出す効果は出ている。

基本的にかなり淡々とお話は進んで行き、出てくる村人も多くて、誰か出てくるたびに冒頭の登場人物一覧に戻って名前を確認するような読書が続くのだが、この物語の面白さはたぶんストーリーのホントっぽさにある。

宇宙人とのファースコンタクトSFものの舞台は大体にして未来なので、リアルさはあまり感じないのだが、本書は設定が過去の話だからなのか本当にあったことではないのかと思ってしまう。

やってきた宇宙人の悪魔のような格好は『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)のオーバーロードを思い出すが、現代パートで中世ドイツに宇宙人がいたのではないか?という仮説を検証しようとするところは、設定も時代も違うが『星を継ぐもの』(ジェイムズ・P・ホーガン)を読んだときと同じような興奮を覚えた。

そして中世の生活も面白い、異星人と地球人の遭遇であるから異星人の生活と考え方が気になるはずだが、中世キリスト教の世界に縛られていないクレンク人の方が現代人寄りな感じ、中世ドイツ人が異星人みたいに見える。

地球人の言葉とクレンク人の言葉はハインツェルメンヒェンが通訳してしまうのですこしつまらないが、その訳文が少し面白い、クレンク人がよく「私の頭の中の文」や「肉体の原子に書き込まれている」という表現をする。

前者は「頭の中で考えている」という意味で、後者は「遺伝子で決まっている」というような意味であるのだが、この訳文は結構うまい、原書ではどう書かれているのか気になる。

村の祭り?(みたいなもの)の様子を見たクレンク人が

「奇妙な習慣だけども感じるものはある、世界全体を愛することはできない、大きすぎるから。でも目の届く範囲の土地ならば何よりも大事だと思うことができる」

と言うセリフがあるのだが、異郷の地で苦しむクレンク人の言葉だけに非常にグッときた。

本書を最初に読んだのは6年前のことであったが、再読しても面白さは失われていなかった。育った環境も違い、姿かたちも違う地球人とクレンク人が少しずつわかりあっていくという典型的な流れながらも非常に胸に迫るものがあった。

初読時も再読時も電車での移動中などにブツぎれで読んでしまったが、次はじっくりと一晩で読みたい重厚なSF小説である。