数年前に映画『あの子は貴族』の予告編を見てずっと気になっていた。
これは何を描いたどんな映画なのだろうか、そう考えていた。
映画の原作小説が駒場東大前の河野書店で売られていたので買った。
100円なり。
ヒロインは二人、東京のお嬢様華子と地方から出てきた美紀。
華子は家族からのプレッシャーもあり結婚しなくてはと焦り婚活を進めるが「いい人」には出会えていない、そんなときに華子は家柄も外見も収入も「高スペック」な幸一郎に出会い恋に落ちる。だが、幸一郎には仲のいい女性の友人がいた。
華子の友人である逸子は幸一郎の「友人」である美紀と偶然?出会い、幸一郎との関係を察知し、華子と美紀を引き会わせる。
そこから泥沼の恋愛劇が始まるわけではなく、華子は幸一郎と結婚する。
だが、華子と美紀はある選択をすることになる。
もどかしかった、読んでる時ももどかしかった。読み終わって誰かにこの物語を説明しようとしてる今ももどかしい、キーボードに触れて、タッチパッドに触れて、文字が入力されていくと、このもどかしさというか何かが消えていくようでそれももどかしい。
私は慶応の幼稚舎に行っていたりとか、親族が議員というわけではないし、家が金持ちでもない。幸一郎とは東京が地元という共通点しかないが私もこんな感じなんじゃないかなと思った。
私は継ぐべき家業も、お金もないし、コネで入社とかをしたこともない。
いや、というかそれから逃れるように生きてきた、「つもり」だ。
でも、でも。
私は「地元」の小学校に行き、「地元」の大学に行き、今も「地元」に住んでいる。
私には違う選択肢もあったはずだ。
「地元」である東京が一番給料が高いし人が多いという確率論的な理由だけで東京の「地元」から離れずに私はずっと暮らしている。
幸一郎と私の何が違うのだ。
私は与えられた選択肢の中からしか選んでこなかったのではないか。それは「選択」と言えるのか。
華子は幸一郎という王子様に「嫁にもらわれる」ことによって家族からの自由、いや何らかの自由を手に入れようとしたのではないか。
自由を渇望しつつ何も行動していなかったのは華子ではなく幸一郎ではないのか。
幸一郎は美紀にどこかに「連れて行って」もらいたかったのではないか。
自分の意志で「連れて行って」と彼が言えたらよかったのに。
小説では華子の属する東京の上流社会と美紀の地元のさびれた漁師町がどちらも同じような閉鎖的で親と同じ人生をトレースする人間しかいないものと描かれていた。
私が住んでいる東京郊外はそんなでもないとは思う、でも本当にそうだろうか。
私の周りには小学生からの「地元」の友人、「地元」の大学の友人、「地元」の会社の同僚くらいしかいないのではないか。
颯爽ではなく「苦しみながら」越境する美紀、そしてその美紀の影響を受け自分も越境しようとする華子が眩しい。
結果的に私は「現状に大きな不満がないから現状維持を選んでいる」のだろうか。
今までの私の生き方というか生きる姿勢、社会とのかかわり方というか、なんというか幼稚さ、XXXXXさみたいなものを突き付けられた読書だった。
まだずっとモヤモヤしている。