2025年6月27日(金)

9:30

久々に家で仕事。

1ヵ月ぶりくらいのリモートワークだろうか。

涼しい。

13:00

朝から外に出ていないせいか汗をかかずに快適。

会社だとモニターが3台あり3つの作業を表示出来ていたのではかどるように感じていたが、最近は同時に3つの作業を進行するため一つの作業に集中できなかった。

家だとモニターが1台しかなく、表示できるのは一つの作業のみ、こちらの方が不便な面もあるが一つの作業に集中できる。

最近はずっと会社だったためリモートワークが新鮮だというのも作業に集中できる一因なのだろう。

21:30

リモートワークだと帰りの電車がないため止め時が分からず作業終了が遅くなった。

結構捗ったように感じる。

1か月に2回くらいはリモートワークをしようと思った。

赤いチラチラ (1)

彼と別れた後、ぼくは小さくホッとため息をついた。そして、持っていたリュックを開けて、手だけをいれ中身をまさぐり、指先に触れたものをギュっと握りしめた。

「本当はこれを見せたかったんだよな…」

そう嘆息すると、見せられなかったことが寂しいような悔しいような、そんな気持ちになってくる。今それができなかったことも、やはり残念だったのかもしれない。

ー今日は電車なんですね、どうしたんですか?ー
さかのぼって、4時間前、中上駅の前で、横を歩く同僚からそう聞かれていた。

ー野暮用でね…学生時代の友人と会うんですー

ーおーじゃあ久しぶりに会うんですかねー

それに、なんとなくうなずいていた。適当な返事だ。本当はそれでも半年ぶりくらいだしその友人とはそんなに離れていた気はしない。よくよく考えれば、自分の返答は、今目の前にいて話している、仕事場でも毎日会う人なのにそうゆう人ほど今近いはずなのに、その実際の距離感の遠さのようなものを実感するばかりであった。

じっとりと汗ばむ陽気のなかで、4月に職場異動してから今日までの慌ただしさを振り返れば、やはりいつも緊張していたし、大変だったなと思い返す。やはり、やっぱり、少なからず自分には重かったんだと。

握りしめた手には赤い布の感触がした。
先程別れたのは学生時代からの友人の彼で、結婚して子どもが生まれてからも時々連絡を取り合っている。特に仲は良い方だ。

それでも頻繁に会う機会があるわけでもなし、今手の内にあるものをまた次の機会に。というわけにもいくか分からない。

実はこの赤いものが、自分のまさに今の姿のひとつであり、気持ちに変なものを挟まないで話してくる彼に対しては、何らかの反応がほしいところであった。

だとしても…、と思い直す。

これをさっき見せられたとして、ちゃんと説明できただろうか?

自問自答した先に、やはり難しいのだろうなと呟く。

それは、正解などはないのに、実はこちらが待ち望んでいる彼からの反応というのがちゃんとあるのであった。もしそれと違うことが起きたときにはただ恥ずかしい思いをするだけの結果になりうるわけで、そこまで考えて筋道立てて話しきることは到底叶わないという思いなのであった。

手にある赤いものを開くとそこにはDULLという文字が浮かんでいた。いつも周りにいる人達や家族がこれをみたとして、想像するに自分の現在地は芳しくない。でも、それでも、大げさでも、これを支えに生きている時間が確かにあった。それは寝つけない夜に頭の中に何度も浮かんできたり、仕事終わりまであと一時間なんとか頑張ろうとする奮起する瞬間だったり、自転車で通勤途中に遠くの川面の流れがキラキラではなく、わずかにチラチラとしか見えなくなったことで世界がまた少し見えなくなってきて、また少し自分に失望してしまったときに思い起こすなぐさめだったりしてきたのだ。

だから、そう。だから、バッグの中にまた赤いものを押し込み、なんとか立ち上がる。目の前では電車の揺れに我慢しきれず、吐瀉物を戻してしまった女性がいて、彼女は開く扉から逃げ出すように走り出ていった。

ぼくはそれらを踏まないように注意して、静かに跳びながら、後について外に飛び出していった。背中のバッグには赤いものが確かにあるようだった。そしてぼくは赤いんだぞ、ぼくは今赤いんだぞと誰にも聞こえないように何度も繰り返した。

2025年6月19日(木)

21:00

馳星周の『不夜城』を帰りの電車で読み終わる。

ずーっと緊張が続く読書というのも珍しい。

クライマックスの銃撃戦から終わりまでずっと息苦しかった。

すごい、という言葉しか出てこない。

21:05

『不夜城』は駒場東大前の河野書店の100円文庫コーナーにあった。

夢枕獏の『大江戸釣客伝』の上下巻の文庫と合わせて500円で買った。

『不夜城』が100円で買えるというのはすごいことである、私にとっては。

でも書店と作者にとってはちょっと安すぎるのかも。

100円コーナーは好きだけど安すぎるのではないかとも思っている。

いつも買う時に少し罪悪感。

「現状に大きな不満がないから現状維持を選んでいる」のはいいことなのか 『あのこは貴族』

あのこは貴族

数年前に映画『あのこは貴族』の予告編を見てずっと気になっていた。

これは何を描いたどんな映画なのだろうか、そう考えていた。

映画の原作小説が駒場東大前の河野書店で売られていたので買った。

100円なり。

ヒロインは二人、東京のお嬢様華子と地方から出てきた美紀。

華子は家族からのプレッシャーもあり結婚しなくてはと焦り婚活を進めるが「いい人」には出会えていない、そんなときに華子は家柄も外見も収入も「高スペック」な幸一郎に出会い恋に落ちる。だが、幸一郎には仲のいい女性の友人がいた。

華子の友人である逸子は幸一郎の「友人」である美紀と偶然?出会い、幸一郎との関係を察知し、華子と美紀を引き会わせる。

そこから泥沼の恋愛劇が始まるわけではなく、華子は幸一郎と結婚する。

だが、華子と美紀はある選択をすることになる。

もどかしかった、読んでる時ももどかしかった。読み終わって誰かにこの物語を説明しようとしてる今ももどかしい、キーボードに触れて、タッチパッドに触れて、文字が入力されていくと、このもどかしさというか何かが消えていくようでそれももどかしい。

私は慶応の幼稚舎に行っていたりとか、親族が議員というわけではないし、家が金持ちでもない。幸一郎とは東京が地元という共通点しかないが私もこんな感じなんじゃないかなと思った。

私は継ぐべき家業も、お金もないし、コネで入社とかをしたこともない。

いや、というかそれから逃れるように生きてきた、「つもり」だ。

でも、でも。

私は「地元」の小学校に行き、「地元」の大学に行き、今も「地元」に住んでいる。

私には違う選択肢もあったはずだ。

「地元」である東京が一番給料が高いし人が多いという確率論的な理由だけで東京の「地元」から離れずに私はずっと暮らしている。

幸一郎と私の何が違うのだ。

私は与えられた選択肢の中からしか選んでこなかったのではないか。それは「選択」と言えるのか。

華子は幸一郎という王子様に「嫁にもらわれる」ことによって家族からの自由、いや何らかの自由を手に入れようとしたのではないか。

自由を渇望しつつ何も行動していなかったのは華子ではなく幸一郎ではないのか。

幸一郎は美紀にどこかに「連れて行って」もらいたかったのではないか。

自分の意志で「連れて行って」と彼が言えたらよかったのに。

小説では華子の属する東京の上流社会と美紀の地元のさびれた漁師町がどちらも同じような閉鎖的で親と同じ人生をトレースする人間しかいないものと描かれていた。

私が住んでいる東京郊外はそんなでもないとは思う、でも本当にそうだろうか。

私の周りには小学生からの「地元」の友人、「地元」の大学の友人、「地元」の会社の同僚くらいしかいないのではないか。

颯爽ではなく「苦しみながら」越境する美紀、そしてその美紀の影響を受け自分も越境しようとする華子が眩しい。

結果的に私は「現状に大きな不満がないから現状維持を選んでいる」のだろうか。

今までの私の生き方というか生きる姿勢、社会とのかかわり方というか、なんというか幼稚さ、XXXXXさみたいなものを突き付けられた読書だった。

まだずっとモヤモヤしている。

2025年5月26日(月)- 5月29日(木)

5月26日(月) 19:15

垣根涼介の『涅槃』の上下巻を読み終わる。

宇喜多直家の少年期から晩年までの「一生」を描いたためか展開が間延びしてるな〜というところがあった。

直家がやむを得ず梟雄と呼ばれるようになっていったというのが面白かった。

5月29日(木) 12:00

上田秀人の『布武の果て』を読み終わる。

今井宗久と千宗易、津田宗及の会話で話が進んていく本能寺の変モノ。

本能寺の変モノはネタが出尽くしたと思っていると時々こういうのが出てくるから面白い。

5月31日(土) 12:57

NHKの朝の連続テレビ小説あんぱんに出てくる安倍サダヲ演じるヤムさんが気になっている。

今週の総集編でヤムさんがコック帽をかぶって髪の毛が帽子からはみ出ているサマを見て気づいた。

彼はジャムおじさんだったのか。

ジャムだからヤムなのか。

2025年5月23日(金)

9:00

駒場東大前駅で降りる。

河野書店で『日本の路地を旅する』(上原善広)を買う。

100円なり。

歩いて神泉へ。

19:00

夜から会社の飲み会。

会社の飲み会に参加するのは2019年の忘年会以来だろうか。

5年以上経っているということになる。

コロナは遠い記憶になりつつあるのか。

22:30

2次会に行くようだったが、私はそれから逃れて駅まで帰ってきた。

しかし少しお腹が空いているので最近よく行く家系のラーメン屋へ。

大盛りラーメン900円なり。

2025年5月16日(金)

9:00

駒場東大前駅で降りる。

河野書店に寄る。

山内マリコの『あの子は貴族』、蜂須賀敬明の『横浜大戦争』を買う。

百円コーナーだったので200円なり。

先週来たときと品揃えは変わっていないと思うがこちらのコンディションによって欲しいものは変わる。

9:10

会社まで歩く。

池尻大橋あたりの谷は道路が複雑に絡み合って地形が歪な感じになっていて面白い。

底と高いとこの高低差が10メートル以上あるのではないか。

高層マンションもあるのですごいことになっている。

20:30

帰りの電車で貫井徳郎の『邯鄲の島遥かなり』を読み終わる。

上中下で計三冊あり、2週間くらいかかった。

東京都の南にある架空の島の住人たちの何代にもわたる大河小説だが、明治維新以降の日本の歴史となっているのが面白かった。

下巻の野球で甲子園を目指す話も意外性があった。

貫井徳郎を読んだのは初めてだったが、今後追っていきたい。

日本が東西に分かれてから統一されるという第二次大戦後のifものを書いているようでそれが気になる。

2025年5月11日(日)

5/11(日) 20:00

『IN/SECTS』のvol.18「THE・不登校」特集を読む。

なんと創刊20周年でvol.18なので季刊でせいぜい5年くらいかと思っていたが1年に1回刊行するかどうかというレベルなのか。

そうか、年1回程度でやっていけば私も雑誌を作れるかもしれない。

5/11(日) 20:30

「THE・不登校」特集には学校に行かないいろいろな理由が書かれていた。

私も学校に行かない状態が10代で3年ほどあったが、「不登校」という状態からやっと脱したと思ったのは30代を超えたくらいな気がする。

そもそも入ったり、脱したりするものなのかもよくわからない。

10代前半の「不登校」時代には学校オルタナティブとしてはフリースクールくらいしかなかったが、いまは少し選択肢があるようだ。

「ネットゲーム」という存在が私の時との大きな違い。

あの時「ネットゲーム」があったら何かが変わっていたのか。

「後悔をしないために常に最善の選択をしてきた」と思うようにしている。

あの時何かが変わっていたのかと考えると、少しというか、いや、胸がドキドキと苦しくなる。

5/11(日) 20:45

不登校の子の日記が面白かった。

ああ、こんな感じだったよな。

私も日記をつけておけばよかった。

毎日同じ内容だっただろうけど。

2025年5月7日(水)

8:30

amazonで注文した『IN/SECTS』のVol.18が届いていた。

Twitterで流れてきた画像にこの号が写っていて、「THE・不登校」という特集がされているようだったので買ってみたのだ。

税込み定価2420円で、送料994円を入れて3414円のところ、Amazonギフト券が500円あったので、2914円なり。

この雑誌の出版社は大阪にある会社のようだ。

だから送料が高かったのか。

2025年4月22日(火)

9:15

橋本健二の『アンダークラス 新たな下層階級の出現』を読んでいる。

去年買った本だ。

頭の中に小学校、中学校、高校の同級生たちの顔が浮かぶ。

何人かに1人は貧困状態に陥っているのだろうか。

いや、私も数年後にそうなるかもしれない。

19:55

帰りの電車で『アンダークラス』を読み終わる。

将来私か、私の家族がこうなることは全然ありえる。

薄氷の上に立っている感じがする。

薄氷はどんどん溶けている。

それにしてもアンダークラスとはすごい言葉だ。

クラス(階級)よりもアンダー(下)ということだ。

下の階級ではない、A、B、Cと階級付けされてCが一番下だとして、一番下であるCの下なのである。